管理人の学歴・大学受験時代

管理人である私が卒業した大学は有名大学ではありません。しかし、いわゆる三流大学と言われることもありません。

東京大学など超難関大学からみれば、もしかすると三流大学に思われているかも知れませんが、自分的には、この大学を卒業したことを後悔したことはありません。

なぜなら、社会人になって卒業した大学に劣等感を覚えたことはあるものの、確実に自分の能力が他の方に対して劣っていると感じたことはなかった。

つまり、この大学の卒業生である私は、他の有名大学の卒業生と比較して相対的に能力が劣るということは顕著に感じられなかったほどの学力は有しているのだなと思っていたからです。

商業高校卒業でも頑張って合格

因みに私は商業高校を卒業して一浪しています。なぜ商業高校かといえば、中学生のときにやんちゃな仲間に入っており、遊び放題、勉強嫌いという状態で普通科に行けなかった事情がありました。

高校入学後、商業科目の内容はなじまず、就職する気にもなれず、高校3年千から大学進学を目指したのです。

高校の先生には進路指導を受ける際、大学進学を伝えたところ、どこの大学を受けるのかの質問に対して、声を大きく「慶応大学と日本大学、そしてS大学です」。

先生曰く、「少年よ大志を抱く」だな!と一言。私の学力から絶対無理という反応でした。

そのときの悔しさは今でも覚えています。

しかし、持ち前の辛抱強さと、地道な努力のおかげもあって商業高校での英語、社会とくに日本史はクラスで1位になるほど高得点をとれるようになり、井の中の蛙であったことから無謀にも慶応大学法学部一択で受験。

当然のことながら不合格。商業高校で英語、日本史で高得点をとれたといっても、たかが知れています。

予備校時代の受験生活

一浪して予備校に通い、朝は9時から12時頃まで駅前のパチンコ店で休憩、昼食後、午後から予備校に行き、自習室で勉強という生活を続けました。

今、思い返すと、亡くなった父には大変、申し訳ない気持ちですが、パチンコでは高勝率でした。

受験勉強は当時からあった、トレーニングペーパーなる学習教材を叔母におねだりしたり、出る単、出る塾をひたすら暗記していきました。

偏差値がグングン上昇したが

さらに自宅に帰ってからの地道な学習により偏差値はどんどん上昇。

予備校での偏差値は40台から60台、そして受験直前期には70台を平均してとることができるようになり、日本史も60台後半まで上昇していったのです。代々木ゼミの公開直前模試では英語受験者16000人中16位、偏差値82という驚異的な数値を残せるまで成長できたのです。

しかし、国語は古文など、商業高校での怠慢が尾を引き、さっぱりでした。

二浪するわけにはいかないため、一浪の際は、第一志望を慶応大学法学部、経済学部、滑り止めに日本大学法学部とS大学の4大学を受験したということです。

なお、日本大学は面倒臭くなったことから受験料は支払ってもらったものの、受験しませんでした。

結果、慶応大学は経済学部不合格。法学部では1次学科試験(英語、日本史、小論文)に合格。ことのきは三田校舎での合格発表に喜び、即座に田舎の父に電話したところ大喜び。身内から初の慶応大学生が出るかもしれないと大騒ぎしたそうです。

その後、日吉校舎での一か八かの面接試験に臨むも、あえなく撃沈されました。そもそも、朝からパチンコ、午後から自習室で自習している状態で、面接試験の重要性など気にもしていない状態で合格すること自体、無理というものです。

最終的に滑り止めであったS大学経済学部に合格しましたが、せっかく慶応大学1次試験に合格できたんだから、二浪してはどうかという、親戚筋からの勧めもありました。

しかしながら、二浪する勇気もなく、S大学に進学することになったということです。

新卒後に入社したのは東証1部上場の建設会社

私が大学を卒業した後、新卒で東証1部上場の建設会社に内定をとり、同社の千葉にあるとある営業所に配属となりました。

そこは営業所長を含めて約10名ほどの陣容で、多くの先輩方はMARCH(明治大学 – 青山学院大学 – 立教大学 – 中央大学 – 法政大学)といわれる大学を卒業した方が在籍しておりました。

そのなかで私が卒業した大学名を知る方は約半数程度。

入社後まもなく歓迎会が開かれましたが、その席で先輩方から人生論などを受けたものです。

ただ、先輩方には悪いのですが、当時既に、私に対して厳しさを説くための社会人1年生への心構えは無意味なものではありました。

学生時代のアルバイトでは国会議員の選挙活動を補佐する仕事であったり、胡散臭いビデオ店で反社会的な方に忖度ある対応をしたりと、ある意味厳しい環境で仕事を経験していったのです。

あるときには、たいへん怖い思いをしながら、また、あるときには冷や汗を掻きながら、お客様や雇い主様に失礼がないよう、一生懸命心掛けていました。

また、突然ではありましたが大学2年生のときには、田舎で自営業を営んでいた父が亡くなりました。

脳卒中でした。当時は、黒電話の受話器の下に挟む大きな器のような留守番電話機に父が倒れたとの留守録があり、翌日朝一番の新幹線に飛び乗り、病院についたときには、既に父の意識はありませんでした。

集中治療室で、人工呼吸器を付け、生命を維持しているだけの状態だったのです。その後、先生と母の話し合いで集中治療室から個室に移りました。

私は、父のベッドの脇に簡易ベッドを設置してもらい、2週間、母とともに付き添い続けたのです。

2週間後の未明、父の血圧異常を示す警報で目を覚まし、数分後に主治医の先生から臨終を伝えられました。

肉親の死を目の当たりにしてから、私自身も死を強く意識するようになり、いずれは自分も死に向かい合うことになると、何となく意識するようになっていました。

するとなぜか、精神的な強さ、落ち着きを感じることができるようになったと感じています。

父の死後、残り2年間、大学に残り、異常な職種のアルバイトを再び経験するとともに、たくさんの社会勉強をさせていただきました。

死を意識するようになったこと、精神的な強さが必要とされる仕事をこなしてきたことで、社会人1年生の新卒に対する一般的な先輩方による指導は何の重みも感じることができなかったのです。

その後、4月に新卒で入社した会社を約1か月間という短期間ではありましたが退職し、家業を継ぐため帰郷することを決意したのです。

面接官の厳しい質問に対して明確な返答

この後、次々とでてくる転職先の面談で、私のこれまでの履歴に対して、新卒入社後に退職したことについて質問が相次ぎました。

「どうせ家業を継ぐなら、何故、会社に就職したのですか?」と・・・。

その際の回答は以下の通りです。

「肉親の死、家業の将来性、私が長男であるなど事情が重なり、これらの結果、苦渋の決断で自身が就職することを決めたということ以外ありません。結局は1カ月で退職することになりましたが、そのときの判断を後悔したことはありません。」

その後の転職活動において、上記の回答で、大抵の面接官は納得されてしまいます。

会社の退職理由は必ず、面接のときに聞かれるものです。退職理由は本心を正直に説明することが必要ですが、なぜか、退職したことが悪いことであるかのように自分で勘違いしてしまいがちです。

会社を退職することは、本人の人生の一部であって、他人のためにするものではありません。この点、自ら強い意志をもって選択した事情をはっきりと説明することで、逆に好印象を得ることも可能と思われます。

以上、とりあえず、初めて入社した会社での出来事ですが、いよいよ、次から私の転職人生についてお話していきたいと思います。